アンテナはアンチ手懐けの略

携帯電話で自撮り。どんなに気持ちが昂っても逆パカなんてせずに、とりあえず自撮り。画素数上昇、自撮り。インカメも外カメの画質と遜色ない、自撮り。二つに折りたたんで画面を仕舞うことで得られていたあの安心感はもうないのだけれど、何事も慣れ。折らなくても案外いけたわ。そんなことより平らな板が提供する瞬速ワールドワイドウェブ、毛穴まで見える高画質、無かった頃には戻れない。世の中も変わった。それはさておき、手から滑り落ちないように注意を払って、自撮り。手軽に実物を超える術まで普及された、が、それは何だか面白くなくて、気にしつつも意識的に無視して、自撮り。

 

病める時も健やかなる時も自撮り。始めてからもう、十五年くらいになるのだろうか。決して見目麗しくない女の自撮り。偶然「やたらと良く写り過ぎてしまったもの」は、ここでいうところの自撮りとしては宜しくない。だから、それを踏まえた程よい角度も熟知している。あくまで現実的な姿であることが第一。

 

自分が認める自分の魂、的なものを嘘くさくならない程度に美化して、姿として見れるものにして収め、目視確認する。自分が重視するものを改めて意識する。これが目的。全ては自分の為。

 

それらしく理由をつけてみたが、自撮り行為が癖になっている、というだけの話だ。そして人のも見たい。みんな、顔、見せてほしい。一般人の、一見気取っていないようできちんと自意識が働いている写真、何処で見られるのだろう。

カバとかサイとかその類のもの

コミュニケーション不能につき不和を極め、至極冷静に家を放り出し・出された人の親たち。世はコロナ時代。23時閉店と書かれた看板を数回確認し、趣味の悪いネオンが煌々とひかる店に頭を差し込むと、涙袋の位置に引かれた白くてギトギトした一直線が印象的な目元を演出しているお姉さん、に「ごめんなさぁい終わっちゃっててぇ」と断られてしまい、仕方が無いのでコンビニで発泡酒と煙草を買って通りをうろついた。駅前に出て、家路へと急ぐまともな勤め人風の男女の往来と縁のぼんやりした月を交互に眺めながら酒を飲んでいたら、何だかよく見えすぎるな、と思い、恥ずかしくなって眼鏡を外して、ため息をついた。お尻が冷たい。帰ろう。なんだか当然のように追い出されたので当然のように悔しく思ったのだが、その悔しさのことは阿呆みたいに直ぐに忘れてしまっていた。友だちとメールしていたら、あそこは私の家でもあるのだった、とその当然のことを思い出した。自宅へ向かう。歩きながら煙草を二本吸い、家の前の長い階段で立ち止まる。そこでまた二本吸い、ぐるぐる巻きにしたマフラーがしっかりと煙の匂いを吸い取ったことを確認してから、階段を昇った。

コートを着たままトイレに入る。冷えきっていたらしい、全然出られなかった。途中でトイレットペーパーを補充して、また個室に籠る。

やっとトイレから出られた。同じ家にいるのに別室でスマホによる文章の応酬。もうあなたのことよく分からないからってティッシュ箱とかマヨネーズとか投げたりしないし、感じ悪いんだよ死ねみたいなことを感じ悪く言ったりしないから、と言って部屋に呼び寄せた。

突き詰めて話したが、やっぱりこの家庭は「どうかしていた」の産物で、重くてばかでかい。で、しんどい。愛とか恋とかの正体や性質が明確に分かっちゃった気がした。

 

凄く鮮やかな色のジャージを着ているが、そのことは今の気持ちと全く関係ない。

やること山盛りつかの間の夕寝で悪夢を見て起きてボケーッとしてたが我に返り、急いでネットスーパー申し込んだら登録カードの有効期限が切れてるのにそこで気づいて、新しいものは実家に送られて持ち戻りになっててこれアレか、色々登録してるやつのカード登録と後回しにしてた住所変更名義変更契約内容のご変更、やらないと終わるやつじゃん、え、何からやったらいいの、テーブルの上に作業出来るスペース無いですけど、皿?ザル?健康酢?あと年末調整もでしょ、あ、これまだ旧姓、夫婦別姓反対に反対ってか、今年も訂正印、気まずいな、やばい、パニック、そういや晩飯食ってない、とりあえずコーヒー飲むか、こんな時には糖分、蜂蜜どぼどぼ入れてな、あっマズ、イ、ンスタントの粉少なかったこれただの黒い飲み物じゃん、そんなことよりアホほど甘ったるい、誰だよこんなもん飲んで落ち着けると思った奴、あっ私か、私やめたい、私をやめたい、部長、私辞めたいです、仕事、も、ですけど、私自身をですね、私を辞めさせてください、貴方は別れさせてください、別れさせて、私と貴方が別れるとかじゃなくて、まずは私が私と、です、どうしたらいいですか。

『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー 』を観た

洋画をあまり好まず、これまで、ほとんど観てこなかった(特に、登場人物が突然歌って踊り出すタイプのものは)。
言語が違う、文化が違う、(拠って)テンションが違う。自分、及び自分の生きる世界から、その舞台や登場人物があまりにもかけ離れているように感じられ、「違う」ことが良くも悪くも、どうしようもなく気になり出して、集中出来ないのである。 そして、何故いま踊る必要がある?

そんな感じで洋画アレルギー気味だったのだけれど、『ブックスマート』というタイトルに無性に惹かれ、観てみようと思い立った。
「勉強頑張って賢くなった人」転じて「ガリ勉」。嘲笑?自虐?そんな湿っぽいムードとは無縁だった。主人公の優等生女子・エイミーとモリーは、「ブックスマート」な自分たちに確固たる誇りを持っていて、私たちって最高!と自己肯定感マックス。自分たちを信じている。これが大前提で始まるのだ。
物語の序盤では、イケてるやつ/イケてないやつの断絶、みたいな、誰もが既視感のあるであろう不穏さを漂わせるも、そんなものは軽々飛び越えて、パワフルにぶっ飛ばしていく。最強のヒロインたちに完全に心を持っていかれた。
うだつの上がらない、ダウナーな自分のテンションに合わせて、薄暗くて辛気臭い邦画ばっか観てきたけど(いや映画は悪くない)。何これ?! かなり気持ちいい…。

内容の良さを綴ろうと思っても、つい「強烈な映画体験」をした、そのことばかりを誰かに伝えたくなってしまう。それほど爽快感に満ちた作品だった。

とにかく、登場人物全員が愛おしかった。カタカナの名前が覚えられない、などと言ってはいられない。一度彼女ら、彼らのキュートさにガッチリと心を掴まれてしまえば、顔と名前、声、ひとりひとりの纏う雰囲気、ファッション、身のこなし等…頭の中ですいすい編み合わせ、しっかりとインプットしながら観ることが出来た。
物語が進めば進むほど、皆を好きになっていく。なんて素敵なんだ。

いま多様性とか何とか、声高に叫ばれているけれど、そして自分が学生だったあの頃から十年も経っているけれど、「(多数派でない故に)クラスで浮いている人」がいる状況なんて、まだまだ其処かしこにあるだろう(大人になったって、所属するクラスがなくなったって、現に実感として全然、ある)。残念だけれど、これからもずっと、あるはずだ。
しかし、その世界の描かれ方が、全く悲観的でなかった。
地に足つけて生き生きと駆け回る、きらびやかな男女の傍ら、映画に出てくる変わり者たちは、あまりにも「浮遊」を楽しんでいた。それぞれが自信を持って存在しているから、誰も他人に構わないのだ。
最高だな。これが現代のリアルだったらいいのに、と思った。

現実は甘くない。とくに若い魂の交差する人間関係は、挙げていけばキリがないほど、些細な残酷さに満ちている。嫌らしくて、じめじめしている。
大逆転の大勝利なんて滅多なことではない。ピザ屋は顧客の住所を教えてくれない。言ってしまえばはじめから、エイミーやモリーは知性と勇気を持ち合わせ、努力の才能に溢れていた。ユーモアだってある。人気者たちはどこまでも屈託ない。分け隔てなく、軽快に、他人との距離を縮めることが出来る。ひとりひとりが自分のスタイルを持ち、必要以上に他人をからかったりしない。映画の中のキャラクターは、誰も彼も人間出来てるし、いいやつ過ぎだ。

自分の過去のことを思い返してみる。学生時代。今より更に中途半端なところで、中途半端に楽しんだり、中途半端にもがき苦しんだりしていた。ように思う(霞んでいる)。遊びも勉強も人間関係も。良くも悪くも、地味だった。それも、「過ぎない」程度の地味。
ゆえに、映画のキャラクターたちと自分を重ね合わせることは、あまり出来なかった。でも、とても「分かる」のだった。
あの世界観で、自分のような突き抜けない、その他大勢のひとりひとりにも、フォーカスが当てられるところをすごく見てみたい。

ここに描かれているのは、多様性・個性の共存の、幸福な終着点であり、これから更に開かれていく人生のスタート地点だと思った。それは、まだまだ理想郷であるように思えてしまうけれど、世界の「クラス」が均等に、こうなってほしいと強く願う。

蕗の薹

ものもらい未満、といったかんじの、出来物の芽のようなものが、上まぶたの裏側に感じられる。持っているどの眼鏡も、曲がってるしボロボロで、気持ちが萎えていた。が、最近はちょっとアホみたいなヘアメイクをして、オモシロの人になるのも悪くないかも…などと工夫している。

 

本当は肌には何も塗りたくないが、春の日差しやら花粉やらウイルスやら、素肌には敵が多いので、気休めにBBクリームを塗っておく。適当〜に。色の白いは七難隠す。おばあちゃんありがとう(隔世遺伝)。子にひっかかれ出来た傷跡、ちいさなかわいいシミ、昔酔って顔面を打ち付けて作った傷跡などは、韓国クオリティの最強コンシーラー様に一掃していただく。眉毛はそのへんの茶色いペンでなぞって、そのへんのブラシでぼかす。

 

(oh、顔白いね、体調悪いの?大丈夫?大丈夫か、では…レッツゴー)

 

伸びてきた前髪は、落ちた毛が目に入ると良くないので、違和感が消えるまでは切らないことにした。コテで強めに巻いて、カールさせている。サイドはカラフルなピンで留める。五本くらいあった茶色のヘアピンを、この間飲みに行った時に全て失くしてしまった為。(無駄カラフル)

全体も巻いたら、左右少量の毛束を取って、三つ編み。これまたカラフルなゴムで括る。(意図的なカラフル)

目に化粧を施すのも避けたい、が、炎症のない目尻側なら大丈夫だろう(ダメ)、ということでピッ、とアイラインを引く。今日は紫のを。紫、カーキの時は はね上げて、黒の時は逆三角形を描くのがブーム。

下まつげには、おそるおそるマスカラ。これがあるとないとでは、完成形の絵のタッチが異なるのです!!

涙袋などという架空の存在に思いを馳せながら、ここかな〜、なんてぼんやりと、淡色のつやっとしたアイシャドウを塗る。

 

個人的には一番大事な、唇のお化粧。

口紅だけは、そこそこ値のするおブランドのものって決めているの。

今日はMACのラメ入り紫に、ピンクのパールを重ねた。アメリカのおもちゃみたいな色でファンシー!気分が上がる。

 

あーあ、髪や化粧や服装のことばかり考えていたいな。

新日本ハウスとワークマンのCMソングを混同することなく歌い出すことの出来る、稀有な存在

実家、という表現は、なんだかむずがゆい。
自分が生まれ育ったその家を離れて、新たな家庭を築いて二年以上経った今も、発するたびに自分の言葉ではないような気がしてしまう。

 

_いや、二年そこそこだから、だろうか。
いやいや、そもそも、家同士が電車で一本、片道三十分のアクセスの良さだから、だろうか。このように書いていても、「生まれ育った家」と「今住む家」の隔たりのなさを改めて、強く感じる。早い話が、恥ずかしい。

 

大袈裟ではないか。違う、言葉が大袈裟なのではない。その表現を用いる権利というか資格というか、覚悟というか心持ちというか、そういうのが自分にはない、圧倒的にない、足りていないのだ。と、いう実感。実の感想。これはまさに、実の。

 

「実家に帰ってさ〜」「実家に置いてきちゃった」「実家に聞いてみるよ」。違和感、そして照れのようなものが、ないまぜになって口内にあまり気持ちの良くない余韻を残す。

 

あれに似ている。
みんなが呼んでいる、あの子のニックネームをおそるおそる声に出した時。
知り合った人(友だち、と言っていいのか、自分はまだ、遠慮している)を、初めて呼び捨てで呼んでみた時。

 

「私、調子乗ってない…?」

 

なんだか、似合わないのだ。自分だけが。

あまりにおっかなびっくりで、最悪、噛んだりするし。

 

それはもう、そのまま「ちゃん付け」でいいじゃん、と言ってあげたいのだけれど。幼き頃の自分に。その気にしいは二十年経っても直らないけれど。意識しないで呼べるやつでいこう。

 

兎にも角にも、「調子乗ってる感」「えっ、私も、いいんですか…?感」に耐えきれなくなったり、①ライン引きをして ②自分をアウト側に置き ③そこを飛び越える という作業を行なって疲弊したりと、感情が忙しくなってしまうのだ。実に。

 

しかし、「実家」に対して下手に出ているだけでもない。
やっぱりちょっと君のことよく分からない。変なのは私だけじゃないと思う。

 

それでは、そこを出て、新しく築いた今の環境や新しい家庭は「実」ではない、ということなのだろうか?

これもまた、「実」だと思う。
むしろ、自活するなり選んだ相手と共同生活をするなり、積み重ねていくその日々は、実(み)のあるものだと思う。
生活の自立度合いや完成度、中身の詰まり具合の話ではない。より「自分、個人次第」になる、といった意味で。

 

堂々と存在している「実家」という言葉に対して、私はいつまでも斜め下(やっぱり、下)からじろじろ視線を送り、意識をし続けるのだろうか。

それとも、上手く付き合えるようになる… っていうか慣れだよ、慣れ。

 

慣れる日が、来るのだろうか。

 

来ないんだろうな。

 

 

アイデン&ティティ&マッフィ

何を自分に期待しているの。才能がないのだから、現実逃避しながら現実だけ愛そうね。こんなにも頭が悪くて生きづらそうにしていて、冷静になればなるほど、ちゃんと育ててくれた親に申し訳なさしか感じません。

 

茶番人間 or 非・茶番人間省エネver.
どちらかに徹すれば、しあわせが見えてくるんじゃない?しあわせっていうか納得のいく仕合わせ。気合い、あ、気愛。気愛と喜愛でノリノリノリカ。素敵なことね。※紀香のブログ