新日本ハウスとワークマンのCMソングを混同することなく歌い出すことの出来る、稀有な存在
実家、という表現は、なんだかむずがゆい。
自分が生まれ育ったその家を離れて、新たな家庭を築いて二年以上経った今も、発するたびに自分の言葉ではないような気がしてしまう。
_いや、二年そこそこだから、だろうか。
いやいや、そもそも、家同士が電車で一本、片道三十分のアクセスの良さだから、だろうか。このように書いていても、「生まれ育った家」と「今住む家」の隔たりのなさを改めて、強く感じる。早い話が、恥ずかしい。
大袈裟ではないか。違う、言葉が大袈裟なのではない。その表現を用いる権利というか資格というか、覚悟というか心持ちというか、そういうのが自分にはない、圧倒的にない、足りていないのだ。と、いう実感。実の感想。これはまさに、実の。
「実家に帰ってさ〜」「実家に置いてきちゃった」「実家に聞いてみるよ」。違和感、そして照れのようなものが、ないまぜになって口内にあまり気持ちの良くない余韻を残す。
あれに似ている。
みんなが呼んでいる、あの子のニックネームをおそるおそる声に出した時。
知り合った人(友だち、と言っていいのか、自分はまだ、遠慮している)を、初めて呼び捨てで呼んでみた時。
「私、調子乗ってない…?」
なんだか、似合わないのだ。自分だけが。
あまりにおっかなびっくりで、最悪、噛んだりするし。
それはもう、そのまま「ちゃん付け」でいいじゃん、と言ってあげたいのだけれど。幼き頃の自分に。その気にしいは二十年経っても直らないけれど。意識しないで呼べるやつでいこう。
兎にも角にも、「調子乗ってる感」「えっ、私も、いいんですか…?感」に耐えきれなくなったり、①ライン引きをして ②自分をアウト側に置き ③そこを飛び越える という作業を行なって疲弊したりと、感情が忙しくなってしまうのだ。実に。
しかし、「実家」に対して下手に出ているだけでもない。
やっぱりちょっと君のことよく分からない。変なのは私だけじゃないと思う。
それでは、そこを出て、新しく築いた今の環境や新しい家庭は「実」ではない、ということなのだろうか?
これもまた、「実」だと思う。
むしろ、自活するなり選んだ相手と共同生活をするなり、積み重ねていくその日々は、実(み)のあるものだと思う。
生活の自立度合いや完成度、中身の詰まり具合の話ではない。より「自分、個人次第」になる、といった意味で。
堂々と存在している「実家」という言葉に対して、私はいつまでも斜め下(やっぱり、下)からじろじろ視線を送り、意識をし続けるのだろうか。
それとも、上手く付き合えるようになる… っていうか慣れだよ、慣れ。
慣れる日が、来るのだろうか。
来ないんだろうな。