『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー 』を観た

洋画をあまり好まず、これまで、ほとんど観てこなかった(特に、登場人物が突然歌って踊り出すタイプのものは)。
言語が違う、文化が違う、(拠って)テンションが違う。自分、及び自分の生きる世界から、その舞台や登場人物があまりにもかけ離れているように感じられ、「違う」ことが良くも悪くも、どうしようもなく気になり出して、集中出来ないのである。 そして、何故いま踊る必要がある?

そんな感じで洋画アレルギー気味だったのだけれど、『ブックスマート』というタイトルに無性に惹かれ、観てみようと思い立った。
「勉強頑張って賢くなった人」転じて「ガリ勉」。嘲笑?自虐?そんな湿っぽいムードとは無縁だった。主人公の優等生女子・エイミーとモリーは、「ブックスマート」な自分たちに確固たる誇りを持っていて、私たちって最高!と自己肯定感マックス。自分たちを信じている。これが大前提で始まるのだ。
物語の序盤では、イケてるやつ/イケてないやつの断絶、みたいな、誰もが既視感のあるであろう不穏さを漂わせるも、そんなものは軽々飛び越えて、パワフルにぶっ飛ばしていく。最強のヒロインたちに完全に心を持っていかれた。
うだつの上がらない、ダウナーな自分のテンションに合わせて、薄暗くて辛気臭い邦画ばっか観てきたけど(いや映画は悪くない)。何これ?! かなり気持ちいい…。

内容の良さを綴ろうと思っても、つい「強烈な映画体験」をした、そのことばかりを誰かに伝えたくなってしまう。それほど爽快感に満ちた作品だった。

とにかく、登場人物全員が愛おしかった。カタカナの名前が覚えられない、などと言ってはいられない。一度彼女ら、彼らのキュートさにガッチリと心を掴まれてしまえば、顔と名前、声、ひとりひとりの纏う雰囲気、ファッション、身のこなし等…頭の中ですいすい編み合わせ、しっかりとインプットしながら観ることが出来た。
物語が進めば進むほど、皆を好きになっていく。なんて素敵なんだ。

いま多様性とか何とか、声高に叫ばれているけれど、そして自分が学生だったあの頃から十年も経っているけれど、「(多数派でない故に)クラスで浮いている人」がいる状況なんて、まだまだ其処かしこにあるだろう(大人になったって、所属するクラスがなくなったって、現に実感として全然、ある)。残念だけれど、これからもずっと、あるはずだ。
しかし、その世界の描かれ方が、全く悲観的でなかった。
地に足つけて生き生きと駆け回る、きらびやかな男女の傍ら、映画に出てくる変わり者たちは、あまりにも「浮遊」を楽しんでいた。それぞれが自信を持って存在しているから、誰も他人に構わないのだ。
最高だな。これが現代のリアルだったらいいのに、と思った。

現実は甘くない。とくに若い魂の交差する人間関係は、挙げていけばキリがないほど、些細な残酷さに満ちている。嫌らしくて、じめじめしている。
大逆転の大勝利なんて滅多なことではない。ピザ屋は顧客の住所を教えてくれない。言ってしまえばはじめから、エイミーやモリーは知性と勇気を持ち合わせ、努力の才能に溢れていた。ユーモアだってある。人気者たちはどこまでも屈託ない。分け隔てなく、軽快に、他人との距離を縮めることが出来る。ひとりひとりが自分のスタイルを持ち、必要以上に他人をからかったりしない。映画の中のキャラクターは、誰も彼も人間出来てるし、いいやつ過ぎだ。

自分の過去のことを思い返してみる。学生時代。今より更に中途半端なところで、中途半端に楽しんだり、中途半端にもがき苦しんだりしていた。ように思う(霞んでいる)。遊びも勉強も人間関係も。良くも悪くも、地味だった。それも、「過ぎない」程度の地味。
ゆえに、映画のキャラクターたちと自分を重ね合わせることは、あまり出来なかった。でも、とても「分かる」のだった。
あの世界観で、自分のような突き抜けない、その他大勢のひとりひとりにも、フォーカスが当てられるところをすごく見てみたい。

ここに描かれているのは、多様性・個性の共存の、幸福な終着点であり、これから更に開かれていく人生のスタート地点だと思った。それは、まだまだ理想郷であるように思えてしまうけれど、世界の「クラス」が均等に、こうなってほしいと強く願う。