桜桃忌

彼のことに就いては、詳しくない。
生年月日は忘れた。テレビのクイズ番組で出題された「この書き出しの作品を答えよ」で、彼の有名な小説の冒頭文を見ても、ピンとこなかった。強くて弱くて煩くて美しい、小説の数々の結末を、残念ながら私は、覚えていない。ファンじゃないんじゃないだろうか。

 

母方のおばあちゃんが、にやにや、しかし薄らと嫌悪を滲ませながら「バーの女と死に損ねた男」と言っていた(おばあちゃんは瀬戸内寂聴さんのことも、「あの不倫女」と言っていた)。おばあちゃんにとっては只の、自分と同じ時代を生きたロクデナシ、ま、ゲージュツカだから仕方ないよね、みたいな感じかー、なんて思った。好きな人がその場に居ない時に皆から悪口言われてて、傷つく反面あれ私この人好きなのってダサいのかもしかして、え、私ダサい…?みたいなライトな残酷さのなかで、人目を憚る余裕のある、底の見える好き、を抱えた思春期らしい恋愛モードに、何度陥ったことか。彼を想って。

 

大学の卒論も、彼の小説について書いた。しつこくて卑屈な笑いをつまみ上げ、改めて眺めた。
それを書く上で、作家と女の関係性、表現についての論文を幾つか目にした(それらも、何を言っていたのかは忘れてしまった。何はともあれ、記憶力が悪くて嫌になる)。何と言っていたのだろう、恐らく、女性目線がどうとか、女への愛情がどうとかだ。

 

彼は女という生き物を誇張していたけれど、馬鹿にしていたのだろうか。否、違う。人が潜在的に隠し持つ強靭な美意識や、自尊心の露呈を、可愛げと毒気にまみれた文体であらわした『皮膚と心』という作品は、私の心の一冊だ。

 

浅くないですか、玉川上水

 

桜桃忌に、愛をこめて